
9.212025
お彼岸だというのに両親の墓参りに行けないという何とも言えないもどかしさを感じる今年のお彼岸。物心がついた頃の記憶は「恐怖」が始まりだった。全ての物に対して怖さが最優先なのだ。周りに誰もいない事への恐怖、真っ暗な夜、夢のなか等々と怖いものだらけ。どこの家もそうだがトイレは外だった。目の前が住職のいない無人の寺である。いろいろな怖い話を姉たちから聞いている。人玉が飛んでお寺を3回廻って建物の中に消えていったとか、夜中に赤ちゃんの泣き声がするとかである。昼間に友達とお寺で遊ぶこともある。2人以上なら少しは大丈夫なのだが、ある日裏の方に回ると、葬式のときに使う見慣れた道具を発見。○○さんの爺ちゃんが亡くなったときに見たものだと恐怖でしゃがんでしまった事がある。それ以来そこにはいかないようにした。だから夜中のトイレは恐怖そのものである。下を向いて寺の方は決して見ないことにしていた。そんな小さいころの記憶とは恐ろしいもので古里に帰ると、この歳になってもやはり怖いのである。そして今でもその頃の夢を見るから不思議である。身に付いた恐怖があるからこそ人生のよい道しるべになっているのも事実なのだろうが、とにかく毎日が恐怖の連続。と言っても質は違う。仕事のことばかりだが最近は老いるということの怖さもつくづく感じる。死に対する恐怖はないが、どれだけ周りの人に迷惑がかかるかの怖さである。いやそんなに皆さん思ってないかも知れない「別に居なくても問題ないよ」そんな声が聞こえてきそう。仏教の「生老病死」が身近に感じる歳になってしまった。
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