7.132026
やはり梅雨が明けると突然暑くなり、息苦しく感じるほどの湿った独特の暑さでもある。姉が事故をしたとの報が入ったのが昭和54年の7月13日の夕方だった。慌てて病院に走ったがかなりの重症であった。あの日の事、苦しかったそれからの毎日のことを昨日のように思い出す。前夫は小さな3人の子を残して蒸発してしまい、さてこれからどのように生きていかなくてはいけないのかと悩み始めた矢先の事故。いったい何カ月すれば仕事に復帰できるのか、その間の生活はどうすればいいのか。家族の悲しみはいかばかりだっただろうか。頼りは不祥の弟私だけである。私は27歳の失敗上がりの情けない若輩である。自分に何ができる?、取りあえず精一杯頑張ってみる。それだけである。三重の実家から母を呼び、付き添いをお願いする。47年も前の交通事情である。四国なんかには2度と行かないと言っていた母も事の重大さに驚き駆けつけてくれた。これは本当に助かった。入院生活の体制がやっと整った10日後の23日に長女が生まれた。病院を2つ掛け持ちで仕事終わりはそれはそれは忙しい毎日だった。どちらも心配だが我が家はめでたいことだからと、どちらかといえば姉、母の方に重点を置いていたように思う。今思えば申し訳なかったと反省である。姉の小さな子どもたちのこと、けがの状態のことはもちろん、生活費の工面が本当に大変だったのを思い出す。事故当事者とのやりとりも、最後の後遺症保障の交渉まですべて一人で成就できたのは奇跡としか思えない。27歳で物凄い勉強をさせてもらったのは後の宝物である。「チクショウお前のことは一生忘れないからな!」姉の前夫に抱いていたわだかまりも、もうすっかり忘れてしまった。助けていただいたたくさんの周りの人達に感謝。あれから47年経った今も元気な姉。大きくなり幸せに暮らしている3人の子供たち。全てに万歳である。
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